「十六日、夜六時に銀座のカフェー・ブルゥパウロニアで愛しい君を待っています」


カフェー・ブルゥパウロニア 1



 香でも焚き染めたのか、花の匂いのする美しい青い色の便箋に濃紺のインクで書かれた一行の手紙を読んだ途端、和己はぎょっとして、慌てて手紙を畳んで袂にしまった。
 三月十六日、あと一時間もすれば昼時という時分にお邸の裏門の前で配達人夫から郵便を受け取った和己は、手紙や小包の束の中に自分の名前が書かれた書簡を見つけた。ついうっかりその場で封を切ってしまい後悔した。まさか、こんな内容だとは思っていなかった。万が一人に見られたら、あらぬ誤解を招きそうだ。
 それに、銀座になど行くこともない和己にカフェーの場所などわかるわけもなかった。しかし、よく見ると封筒の中には地図が同封されていた。なんともソツのないことだ。
 封筒に差出人の名前は書いていなかった。だが、それでもこの手紙の差出人が誰だか、和己にはわかった。間違えなく、和己に読み書きを教えてくれた男だろう。
「あいつ、一体何考えてるんだ・・・」
 見計らったように手紙を寄越すところも、あの男らしい。
 和己は今日の昼すぎから休みを貰っている。河合の本家の大叔父の具合がどうも良くないらしい。去年の暮れから悪い風邪に罹って床に伏せっていたのだ。半月前に女中頭その話をしたところ、翌日に執事から彼岸の入りから三日半の休みを都合してくれた。
 だから、今日の午後一番で和己は故郷(さと)に帰るはずだったのだ。
「和さん!」
 急に声を掛けられてびくりとして振り返ると、息せき切らせながら少女がゆるやかな勾配のアプロオチを小走りに駆け下りてくるのが見えた。高瀬邸に奉公に来ている女中仲間のみつという娘であった。
「大変、大変だぁ。早く来て!」
 和己の側に来るなり、少女が和己の薄い縹色袖を引っ張ったので和己は狼狽して、思わずその手を振り払いそうになった。
「清吉さんが、裏庭で薪を割ってたら腰を痛めちゃったみたいで動けなくなっちゃったんだ。そばに男衆がいなくて、それで私一人じゃとても役宅まで運べなくて・・・」
 少女の焦燥の理由を聞いた和己は慌てて郵便を小脇に抱えると、少女に手をひかれるまま裏庭に走っていった。
「もう、清吉さんってば、歳なのに無理をするから・・・!ねぇ、和さん。そう思うでしょ?」
 少女が怒ったように言ったのに対して、和己は苦笑いでしか答えられなかった。
 清吉はもう七十を越えようかという偏屈なじいさんで、御一新の時からこの高瀬家に仕えている古株だった。夫婦で高瀬家に奉公していたが、一昨年前に連れ合いを亡くしている。清吉の奥さんは優しくて、温和な人で働きものだった。面倒見のいい人で、和己が田舎から出て奉公にあがった当時、仕事を丁寧に教えてくれたのもこの人だった。恋女房を亡くした時に清吉は田舎に引っ込むか迷っていたようだったが、高瀬家への忠誠心が勝りここへ残ったのだ。奥さんの七七日の時に「わしゃ、足腰立たなくなるまで、高瀬のお家に御仕えするんだ。準太様のお子の顔拝むくらいまでは、働くぞい」と笑いながら和己に話をしていた。冗談のように言っていたが、本心なのだろう。無理はさせたくないけれど、生甲斐を奪うこともしたくはない。
「和さん、大八車かなんか・・・蔵から持ってきたほうがいいんじゃないかしら?」
「大丈夫だ。これだけ持ってもらえれば」
 和己が郵便を渡すと、みつはわけがわからないという顔をして小首をかしげた。
 和己たちが裏庭につくと、清吉が地べたに転がったままうんうんと唸っている。随分と辛そうだった。
「清吉さん!」
 駆け寄ると、和己は清吉を抱え上げた。みつは和己を見上げながら「和さんすごい・・・」と呟いて、ぽかんとした顔をしていた。
 清吉は小柄な体躯をしていたので、横で介添えをしてもらい二人で使用人役宅まで運ぶことが出来た。
 しかし、清吉はそれが気に食わなかったらしく移動の最中に文句を言っていた。
「こらっ、下ろさんか、お和!この小娘が!おなごが男を運ぶなんてはしたない!だからお前は嫁の貰い手もないんじゃ!」
 もう、小娘なんていう歳はとうに過ぎていたので思わず和己は笑ってしまった。御曹司の準太が和己をかまうから、若い女中のなかでは和己のことをやっかんで「いかず後家」「不器量な年増」となどと謗る者もいるくらいだ。
 そんな和己だが、今までに縁談の話はいくつかあったのだ。だが、和己自身が乗り気じゃなかったことや、釣書の写真を見た相手があまり芳しい反応をしなかったので、いつもお流れになっていた。世話をしてくれる人間は、使用人仲間などではなく、いつも本家の叔父だったので縁談があるということ自体を奉公先の誰の耳にも入れなかった。そう、誰の耳にも・・・。
 和己は、はいはいと清吉の憎まれ口を聞き流していたが、みつは『お布団に運んであげるためにやってるのに、そんな失礼なこと言わないでくださいっ』とぷんぷんと怒っていた。
 清吉はこんどはみつに「ケツの青いわっぱが、一人前の口きくんじゃない!余計なことするなっ」と怒鳴ったが、その拍子に強く腰が痛んだのだろう。「うっ」と呻いて息を詰まらせた。
 和己が具合の悪い人間を興奮させちゃいけないと嗜めると、みつはしぶしぶ口を噤んだ。
 使用人役宅に着くと、みつが敷いた布団に清吉を寝かせた。和己は湿布薬を持ってきて清吉に貼ってやりながら、ゆっくり養生するように言って聞かせた。最初は動けるとか大丈夫とか言って布団から這い出そうとしていたが、やはり無理だったようでしばらくしておとなしくなった。しかし、しきりに途中で放って来てしまった薪割りのことを気にしていた。
 清吉を寝かしつけて、みつと一緒に役宅の玄関で履物を履きながら時計を見るともうとうに正午を過ぎていた。
「和さん、お休みいただいてるんでしょう?」
 和己の事情を知っているみつは手間を取らしてしまったことを申し訳なさそうな顔をした。そんなみつに和己はそこまで急がないからと言って、笑ってみせた。
 みつは女中頭にいいつけられている仕事してからじゃないと昼飯にできない、早くしないと食いっぱぐれてしまうと言って、役宅から和館へ飛んでいった。
 和己は故郷(さと)に戻る準備はすでに出来ていたので、お邸を出る前に襷を持って裏庭へ行った。
 そして、周りをきょりきょろと伺い、誰もいないことを確かめると放り出してあった薪割り斧を拾った。女が斧で薪割をしている姿など、あまり外聞がよくない。口性のない人間に見られたら今度は「あれは女じゃないよ」などと言われてしまうだろう。
「でも、鉈を使うよりもこっちのほうが効率がいいんだよな」
 和己は積んであった薪を、手にとって切り株の上に乗せる。
「よっ」
 振り下ろすと、斧が薪をまっ二つに割り裂いた。
 この調子で和己は次々と薪を割っていった。最後のひとつを切り株に載せると、準太が小さい頃、薪を割る和己の真似をしたがったことがあって諦めさせるのが大変だったことを思い出してちょっと笑った。
「どうして笑ってるンすか?」
 その途端、背後から声を掛けられて思わず手元が狂った。振り下ろしてた斧の刃は切り株を逸れて土にめり込み、和己は思わずよろけた。
「おわっ!」
「和さん!」
 名前を呼ばれる。どこか甘ったれた感じがある独特の響きに焦りが混じっていた。
「あ・・・」
 和己は体を抱きとめられるようにして支えられていた。和己を支えてくれている腕は華奢な女のものではなく、紛れもない男ものだった。
「大丈夫っすか?」
 見上げれば、和己に寄り添っていたのはネクタイを締めたブレザー姿のこの邸の御曹司であった。


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