オレの好きな深くて濃い色をした眼とか、堅くて真っ黒な前髪とかが迫ってくると、阿部君、阿部君って心の中で名前を何回も何回も呼ぶことしか出来なくなる。オレはいつも、なかなか目を閉じられない。タイミングが分らないって言うのもあるけれど・・・いつも、阿部君はこういうことをするとき躊躇うようなそぶりを見せるから。途中でやめられちゃうんじゃないかって不安になる。
やめられてしまったら、ホッとするんだと思うけれど、それ以上にきっとオレは落ち込んでしまう。きっと、そうなる。オレって・・・ほんとうにどうしようもなくダメなヤナヤツだ。阿部君は、そんなふうに落ち込んじゃうオレのことなんか全部お見通しなのかもしれない。
だから、いつも躊躇うけど途中でやめてしまうことは一回としてないんだ。
阿部君は、優しい。



ケイアイエスエス





阿部君のほっぺたの温度を、オレのほっぺたで感じられる頃になると、頭の中がまっしろになってもう、何も考えられない。
少し乾いた柔らかい唇がオレの唇に合わさると、緊張がピークになって反射的にぐっと歯を喰いしばってしまうらしい。全然自覚は無かったんだけど・・・。
ある日、その・・・そういうことを、阿部君とした後でふわふわして夢見心地でいたら、
「そんなに歯を喰いしばるなよ。嫌なら、しねぇからさ」
って言われたことがあって、オレは言われた意味を理解した瞬間に涙腺が壊れたかのようにだーだーと泣いてしまった。
雲の上から、一瞬にして地面にたたきつけられたようなショックだった。
あの時は、悲しかったとか、苦しかったとかっていうんで涙が出たんじゃなくて、ガーンってショックが襲ってきて、それと同時に目から勝手に涙が出て・・・実はオレ自身もびっくりした。あんなことは、初めてだ。阿部君と一緒にいると、色々な“初めて”を経験する。
でも、最近は歯を喰いしばってしまうこともなくなった・・・。
「ん・・・」
阿部君の唇が、小さく押し付けられると凄く気持ちよくなってしまう。緊張してても、すぐに体から力が抜けてしまう。少し離れては触れ合い、また離れては触れ合うっていう動き繰り返す。ずっとこうしていたい・・・なんて、知られたらトンデモ無いことだ。俺が、そんなことを思っているなんて内緒、内緒。図々しいのにも程がある。
離れた拍子に、阿部君の吐息が唇に触れた。
その吐息が、じわっとオレの唇を濡らしたのがわかって、ぞくっとした。
とっさに抱きついてしまいそうになるのを、我慢するために、オレは阿部君のシャツの裾を握った。抱きつくなんて、いくらなんでも馴れ馴れしすぎる。前に阿部君に、シャツの裾をつかんでいいですかって聞いた時、凄く変な顔をされてしまった。でも、変な顔をしたままの阿部君に「いい。好きにしろ」って言われたから、今も阿部君の言葉に甘えてしまっている。
「は・・・ぁ・・・」
今、この瞬間は野球のことは頭になくて・・・唇に感じているものとか、布越しに触れ合う胸と胸の温度とか、シャツの布の感触とかでいっぱいになる。初めて、こんなことになった時はとっても驚いて、とっても悩んだ。いつも、当たり前のようにあったものがなくなる瞬間があるっていうことに、戸惑ってしまった。
何か、本当に大切なものを見つけるとオレはすぐに周りなんか、見えなくなっちゃうんだって、いうことが分った。
「ふ・・・・」
唇の角度がちょっと変わった。この角度だと、阿部君の頭がちょっと傾いでる感じになってるんじゃないかな。この角度、好きだ。阿部君がシテくれてるんだって思えるから。
「ぁ・・・ん・・・」
吐く息に、変な声が混ざってしまって困る。でも、すぐに気にならなくなった。気にする余裕は無くなってしまうから。
気持ちが、溢れる。好きが、溢れる。
阿部君、もっとオレに触ってください。阿部君が、いいというところまで、オレに触ってください。
夢中で、鳥が啄ばむような動きを繰り返していると・・・阿部君がちょっと顔を引いたのでオレは瞬間夢から覚めたような気がしてさぁっと血の気が引いてしまった。
欲張ってしまった。オレの下心が伝わってしまったのか・・・どうしよう、どうしよう・・・呆れられちゃう。
「お前さ・・・分ってやってる?」
オ、オレはまた何か失敗をしただろうか・・・間違った方法でしていたのかな?
でも、これは、阿部君が教えてくれたんだ・・・阿部君のやり方はオレは以外知らないんだ、よ?
オレが応えられずに、阿部君の濃い色をした下がり眼を見ながら途方に暮れていると、はぁっと溜息をつかれてしまい、オレはビクッとなる。
「お前、ここを何処だと思ってんだよ」
「?」
「昼休みの部室だぜ・・・畳の上で寛いじゃいるけど、十分後にゃ授業あんだぞ。オレなんか体育だぞ?」
「う、うん・・・知ってる。オレは、次は英語、だ」
 ホントは、忘れかけていた。
 7組に英語の辞書を借りに行ったら、水谷君も花井君も持っていなかった。阿部君から辞書を借りようなんて思っていなかったけど・・・姿が見えなかったから気になってどこかなって、きょろきょろしてたら、花井君が『阿部は昼休みは、部室で昼寝するって言ってたぜ?俺、さっき鍵貸したし、昼休みは部室にいるぜ、あいつ。行って、貸してくれって聞いてみたら?』って親切に教えてくれたから、オレは部室まで来たんだ。そしてら、阿部君は畳の上でごろんと横になってうとうとしていた。オレが側によったら、パチッと眼がひらいたから、ビックしりした。寝顔、見たかったんだけど、な・・・。
「知ってる、辞書が無きゃあ、持っていってもいいぜ。オレの机に入ってるから」
オレは、辞書を貸してくださいって言わなかったけれど、掻い摘んで7組に行ったことと花井君が言ったことを話したら、先にそう言ってくれた。本当は、オレが『辞書を貸してください』ってお願いしなきゃいけなかったのに・・・気を使わせてしまった。
「あ、ありがと」
「いや、そうじゃなくてだな・・・お前・・・」
オレは、うっとつまった。逸れた話が、戻ってきてしまった。
阿部君が、何か言い辛そうにしている。オレは、ドキドキしながら何を言われるか待っている。
ドキドキドキドキ・・・。
「お前さ・・・誘うなよ」
 え?誘うって、何を?さ、さっきのアレをするきっかけは・・・なんか、なりゆきだったような・・・オレ、してくださいなんて口に出して言ったこと、一回も無いよ・・・ね?
「そ、そんなこと・・・してない、です」
 それともなんか違うことを言っているのかな・・・?あれ?あれ?
「無自覚なのかよ・・・性質悪ぃぜ」
 な、なんか・・・駄目出しされているような気がする・・・とか思ってたら阿部君はガシガシと頭をかいて顔をちょっと赤くしながら乱暴に言った。
「お前、学校でキスしてる時・・・クチ開けんなよ!っつてんの!」
「〜〜〜〜!!」
 あああぅ・・・ひぃ!オ、オレ全然そんなことしてるなんて思わなくて・・・もっと触って欲しいとかは思ったけど、思ってるだけで何もしてない・・・してないつもりだったのに・・・また、とんでもないことしちゃった!
 前に、一度だけその・・・舌をさわりっこしたことがあったけど・・・あの時、とんでもないことになってしまって・・・大変だった・・・そのイロイロと・・・。
「ご、ごめんなさ・・・」
 謝ろうとするところに、予鈴が鳴った。
「やべ!早く行かねぇと・・・間に合わねぇ。オレ、次グランドだ」
 阿部君が、急いで畳の縁に座ってスニーカーを履き始めた。オレも慌てて畳から降りて、ローファーに足を突っ込んだ。
「そっちは、間に合いそうか?」
「た、多分、へーき」
「じゃ、行こうぜ?」
「う、うん・・・」
 三星にいた時は、一人で過ごす休み時間が長く感じられて苦手だったのに・・・。昼休みって短いって初めて感じた。もう少し、阿部君とシテいたかったな、なんてちらりと思った。
「だから、んな顔すんなよ」
「??」
「・・・後ろ髪ひかれてますってツラしてる」
「!」
 オレ、物欲しそうな顔してたんだろうか・・・。恥ずかしくなって、下を向いて「うん」というと阿部君が頭をぽんぽんと叩いてくれたので、オレはそれだけで凄く凄く幸せな気分になった。
「ほら、本当に急がねぇと、やべぇって」
 阿部君が急かして、オレは慌てて部室から出た。
 手早く扉に鍵をかけた阿部君とオレは部室の前で別れた。グランドと校舎の方向は違うから、ここでお別れだ。
「じゃあ、また部活でな」
 阿部君は、それだけ言うとグランドに向って走っていった。
「うん。辞書、ありがとう。そ、それから、体育・・・が、がんばってね!」
 離れてゆく背中を見ながらオレは・・・体育頑張ってっていうのは余計な一言だったかな、ってちょっと心配になっていると・・・阿部君は振り返りはしなかったけど・・・グラウンドへ向って走りながら右手を軽く上げてオレの言葉に応えてくれた。
 オレは、それが凄く凄く嬉しくて・・・結局、阿部君の後姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。



 ギリギリで、授業開始には間に合ったけど・・・昼休みの出来事ばかりが気になって、いつも以上に内容が頭には入らなかったことは・・・当然阿部君にはヒミツです。

END

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