「父母会からの差し入れで、葡萄をもらいました!」
篠岡がおにぎりを食べ終わった後にザルにこんもり盛られた葡萄を持って現れた時に、『おおぉ!』とみんなの沸く声がベンチいっぱいに広がった。
真っ暗になった初夏の夜の、あまり明るいとは言えないベンチの灯に黄色っぽいライトの光に照らされている葡萄は、まるで宝石みたいだった。
「 葡萄色幻想 」
「ぶ、葡萄・・・スキだ」
オレの隣いた三橋が地味に喜んでいる。
「葡萄、好きなのかー?」
って水谷が聞けば、泉が「三橋は、甘いモンはなんでも好きだよな」って言った。三橋は、顔を赤くして「うん」と頷いてた。
まぁ、そうだろーよ。お前はそういう奴だよ。
「で、でも・・・タネがあると、出さなきゃなんないから・・・食べんの遅い」
誰もお前の分なんか、とって食ったりしねーよ・・・あー、田島あたりはするか?
みんなが思い思いに腰を下ろすと、篠岡が葡萄を均等になるように配慮して配る。
「三橋君、大丈夫だよ。このピオーネは種無し葡萄だって言ってたから」
「お、おぉ!」
三橋があの驚いたような顔をする。
「新鮮だよぉ!花井君や水谷君のお母さんたちがぶどう園で昨日買ってきたって言ってたから。あ、みんな・・・皮はこっちに捨ててね」
気の利くマネージャーきちんと用意していたゴミ袋を、置いていった。
「うわー、冷てぇ!冷えてて美味い!」
「甘い!おいしー!今度ちゃんとお礼言わなきゃね」
「実が大きいから、食べ応えあるよね」
産地直送という肩書きのピオーネはすっげぇ好評だった。
「こんなデカイのに、マジで種がねぇのな」
花井が摘んだ果実を吸い上げているのを見て、田島が「花井、タネナシなの?」とぼそりと言った。そんで、花井が滅茶苦茶怒ってた。周りは微妙に引いている。オレは馬鹿馬鹿しくて、ノーコメントだっつーの。三橋はひたすら皮を剥いて口に入れるって動きを繰り返している。聞こえてねぇな、こりゃ。ま、そのほーが都合がいい。
オレも一粒とってみると、冷えた果実が指先に冷たく気持ちいいよかった。張り詰めた感じが、その艶々した皮の下にある、ぷるんとした果実を想像させる。
充実した実に爪を立てて皮を剥くと、ちょっと意外だった。
「へぇ・・・」
こんなに、皮は濃い色をしているのに実は薄く透明度の高いグリーンだった。剥いたそばから、果汁が滴りそうになって慌てて口に突っ込む。
「うん・・・美味い」
爽やかな酸味と葡萄の甘さがたまらない。汁気たっぷりだから、咽喉の渇きも潤う。
「うひ・・・」
っと、あの独特な笑い声が聞こえた。
首を隣に捻ってみると、案の定三橋がヘンな笑いを口元に浮かべてた。
「・・・なに?」
なんで、葡萄喰うオレをみてお前が笑うわけ?
「お、おいしいですか?」
なんだか、随分畏まって聞かれた。相変わらずコイツのことはよくわかんねぇ。
「おう、美味いぞ」
けど、とりあえず思ったことを答えた。すると、またうひっと嬉しそうに笑って「オレも、美味しいよ」と言った。
その顔が嬉しそうだったから、オレはもうそれだけでどうでもいいやと思って深く考えるのをやめた。
三橋が、嬉しいんだったらそんだけでいいよ。
オレは葡萄に手を伸ばし、一粒とって皮を剥いた。
三橋も随分と寂しくなった房から、葡萄を一粒もいで皮を剥き始めた。その様子が、あんまりだったんでオレは眉間にシワを寄せちまった。
コイツ・・・なんつーか、不器用、なのか?
普通、変化球を投げる投手の手先ってのは器用なもんだ。それが、なんだこりゃ?何度も、皮を剥きそびれたり力を入れて潰しそうになったり・・・見てらんねぇよ。
ああ・・・なんで、野球以外で、しかもこんなくだんねぇことで、イラァッとしなきゃなんねぇんだ?!
それでも、三橋必死にやってようやく皮を剥き終えた。つるんと剥けた果実を見て、三橋は「ふひっ」っと笑う。相変わらずヘンな笑いだな。
みずみずしいグリーンの果実を摘み、幸せそうなマヌケ面で三橋はあーんと口を開いたが。
「あ・・・」
三橋の動きが止まった。何かを見つけたらしい。三橋の視線の先を、オレも追う。
「・・・っ」
そこで見たものに、オレは目が釘付けになった。
三橋の指先から手首にかけて、果実から滴った雫がつぅっと伝い落ちていた。まるで、指先から日に焼けていない三橋の手首の線を、誇張するかのよう。
白い膚を滑り落ちる、鮮やかな紫の一筋がオレの目を射る。
葡萄の濃密な匂いが、頭の心を甘く溶かした。
三橋は、自分の手首を見て一瞬目を見張ったけど・・・すぐにその瞳を細めて笑った。猫の目の印象はそのままなのに・・・それは、オレの初めて見る顔だった。
三橋が一度笑の形にした唇をゆっくりと開く。薄い二枚の唇の狭間から、舌がわずかにのぞいた。
三橋の顔が、手首に近づいて・・・紫色をしたひと雫を舐めとった。
滴る甘い標に沿って、灰赤い舌先が白い皮膚の上をぬめぬめと這いあがる。手首をついたい、掌に辿り着くと大胆にべろりと舌全体でひと舐めし、摘んでいた柔らかな果実を指先ごと口に含んだ。
オレの舌の上に残っているこの葡萄の甘さが、三橋の口の中にもあるんだと思うと、舌根が下がり猛烈な勢いで唾液が沸いた。
咽喉の奥が、甘さで焼けているようだ。
葡萄を飲み込んで満足そうな顔をした三橋が、オレを見た。
オレの体は、少し揺れた。まるで、何かに脅えるように。
三橋は、オレの手を見て言った。
「葡萄の実の色は、グリーンなのに、汁は紫色してるんだ。おもしろい、よね?」
いつものたどたどしい口調。篭るような低い声はオレの鼓膜をしめやかに震わせる。
「阿部君、垂れてる・・・」
言われて自分の手を見ると、摘んでいた葡萄から紫の果汁が垂れて手の甲を汚していた。
なんだか居たたまれなくなって、苦し紛れに舌打ちすると唇を噛んだ。
こんなになっているのを、気付かないほど三橋に見入ってたって言うのかよ・・・。
バツが悪くて、三橋の顔を見れないでいると目の前に人の気配がした。
えって思って顔を上げると三橋の顔がオレの手に近づいてきた。
オイ、やめろよっていう言葉が甘く焼けた咽喉にひっかかって出てこない。
三橋は少し首を傾げて、口をすぼめると何のためらいもなくオレの手の甲に吸い付いた。
ちゅっと、小さく音を立てて甘い汁を吸う。小指の延長にある、手首に突起した三角骨を舐め上げられ、指の股に舌をにゅるりと差し込まれると、じんわりと腹の奥が痺れた。
口の中いっぱいに、甘い唾液が湧き上がる。それを、ごくりと飲み込んで、
「み、はし・・・」
と、呼んだ声は、明らかに上擦っていた。
戸惑いながら見下げるオレの目に映ったのは、淡い色の前髪から、伏し目がちの眼にけぶる睫毛と、幼子のような無心な表情。
三橋は一度唇を離す。
子供のようだと思った表情が、一変した。
三橋は、舌なめずりをしてオレを見上げる。
「阿部君、ちょーだい」
いい?と濡れた唇が動いて、あの低く篭ったような声がねだる。オレはぼんやりした頭で、わけもわからず頷いていた。
三橋は、猫のように目を細めて笑い口を開けるとぱっくりと果実ごとオレの指先を口の中に咥えた。
果実を挟んだ人差し指と親指を、吸われた。そして、三橋の歯が指先に少しぶつかった。
その途端・・・。
ガタン、という音に周りいた何人かがオレの方を見た。巣山が目を丸くして声をかけた。
「どーしたー、阿部?」
後ずさった拍子に、ベンチの足にぶつかったんだ。なんか、すげぇ情けねぇ。
「あ、いや・・・なんでも、ねぇよ・・・」
俯いて、口元を押さえると、栄口がからかうように笑った。
「なんだよ、阿部。夢か幻でも見たような顔してるよ?幽霊でも出た?」
その言葉に、みんなが笑って口々に好きなことを言ってやがる。
夏には怪談がつきもんだよな、とか。今度百物語やろう、とか。えー、オレほんとに霊感あるからそーゆーのやめようよー、とか。
三橋はいつものキョドリ顔で「ユーレー・・・!」と呟くとガクガク震えて、それを篠岡やシガポにまで笑われていた。
この三ヶ月で、見慣れた風景だった。オレの、日常のヒトコマ。
なのに。
なんだったんだよ、さっきのは・・・。
黄色い灯に照らされて・・・突如として目の前に現れた異様にして異常な非日常。
オレは驚き戸惑い・・・最後には陶酔した。
「くそっ・・・」
内心で毒づいて、指先を見れば葡萄色というよりも薄茶色いような着色が残るばかりで、さっきまで摘んでいたはずの果実は、なくなっていた。
オレはチラリと三橋を見ると・・・相変わらず不器用な手つきで葡萄の皮を剥いている。それを、水谷にからかわれて、キョドったり笑ったり。
どこから、どうみても・・・こっちがリアルだ。
栄口が言った事は、あながち外れてねぇかもしんねぇ。さっきのアレは、疲れたオレが見た夢か幻だったのかも。
馬鹿馬鹿しくなって、オレは葡萄の房に手を伸ばした。皮を剥いて、口の中に放り込む。
ちょうど良い酸味と甘さのある汁が、じゅわっと口に広がる。
汁がついた指先を、舐めていると・・・視線を感じた。
とっさに、顔を上げると三橋がオレを見ていた・・・と思う。目が合ったと思った瞬間に、視線をそらされたから、どんな顔をしていたかはわからないけど・・・。
笑ってた、か?
オレの舌に、ぞっとするほどの甘さが蘇り、目の前が一瞬、紫色に染まったように思えた。
END
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