※御注意!※
このお話は高瀬家の子息で学生の準太と高瀬家の女中和さんという超パラレル設定です。このトンだ設定でオッケーという冗談のお分かりなる寛大な方のみ先にお進みください。よろしくお願いします!



こひいろがさね 〜桐青大正浪漫〜


 春まだ浅き、帝都の夜明けは酷く冷え込む。
 一番鳥も鳴かぬうちに起き出し、夜着から着慣れた薄い紫色の紬に帯を締めて着衣を整えた。それから、衣紋かけに掛けてあった真っ白な割烹着を、手に取り広げた。襟紐を解き、袖山を滑らせるように片方ずつ袖を通すと、そのまま襟紐を背中で留め、調節紐を帯留にきゅっと結わい、最後に腰紐を一度後ろに回し、前で結ぶ。
手早く身支度を済ませると、床についている主たちの眠りを妨げぬようそろそろと忍び足で食堂へ行き、大理石造りの暖炉に火を入れる。炉が暖まった頃に椅子を側まで持って来て置き、そこへ濃紺のズボンと白いシャツを広げる。
 それが、河合和己の早朝の日課であった。
 今日も、平素と変らず、糊のきいたシャツを暖炉の側に持ってきた椅子に広げようとした。
だが。
和己は途中でその手を止めた。
「これじゃ、ない・・・」
 今まで使っていたこの中学校の制服は、今日から使われなくなるからだ。
 和己は二度と着られることのない、その白いシャツを広げてしげしげと眺めて、それからひとつ溜息をついた。
シャツはこの家の御曹司のもので、彼は先日、中学校を卒業した。
ついこの間まで、和己のあとをついてまわって、やんちゃばかりしていたと思ったのに・・・いつの間にか随分と大きく立派になったものだ。シャツの寸法はもう旦那さまのものを超えている。
 ふふっと笑って、和己はシャツとズボンを丁寧に畳む。ブレザーとネクタイとあわせて、もう一度手入れをしてから蔵へ仕舞わねばならないだろう。
 和己は広間を出ると、再び違う洋服を持って再び戻ってきた。
 まだ真新しい黒いズボンと、黒い詰襟に金色のボタン。
 第一高校の学生服である。
 和己は制服を椅子の上に広げると、暖炉の火にあてて暖めた。
 


 女中頭に朝の給仕の手伝いをするように言いつけられ、お勝手へ急いでいると、誰も居ない廊下で後ろから声をかけられた。
「おはよう、和さん」
 足を止め、声のしたほうを見れば、黒い詰襟を着た高瀬家の子息である準太がいた。
 黒い詰襟に金ボタンがよく映える。
 その顔に、幼少の頃のあどけない面影が残るも、口元は引き締まり、鼻筋の通った顔は随分と大人びた印象になっていた。
 とても、一高の制服が似合っている。
 昨日まで見ていた準太とは、まるで違うように見えて和己は少し戸惑いを覚え、視線を側にあった白いスチィム暖房器に向けた。手風琴の蛇腹にも似た、なめらかな白い磁器に描かれている唐草文様がとても美しい。家具や骨董には明るくない和己にさえわかることだが、このお邸にある調度品は全て、洗練されたものばかりだ。
 和己はこの高瀬のお邸へ奉公にあがってもう十年近くになるが、いまだ慣れない。この洋館に居ると、時折どこか異国の地へとまぎれこんでしまったのかと思うことがある。   
しかし、準太は高名な西洋の建築家が建てたというこの洋館に相応しかった。和己たち使用人は、この洋館の中にいる、自分と空間の差異にどうしてもちぐはぐな印象を受けるけれど、準太は違う。まったく浮かないのだ。
 バルコニィで庭を見ながら、中国磁器でお茶を飲む準太の姿などはまるで絵画のようだった。
「和さん?」
 いつものように呼ばれるが、その声が妙に耳にくすぐったく、すぐに答えられずにいると準太が怪訝な顔をしてこちらをのぞきこんできた。そんな仕草はまるで子供なのに、目線の高さが殆ど変らないことが不思議だった。
「ああ・・・おはよう。準太」
 挨拶を返せば、準太の顔がほっとしたような笑顔になる。
 こんなところを、女中頭が見たらおかんむりになるに違いない。
 普通ならば、使用人が主人に頭を下げるべきものなのに、主人が使用人の顔色をうかがうのだから、あべこべもいいところだ。
 それどころか、使用人が主に当たる御子息を呼び捨てなどにするのは恐れ多いのだが、準太本人が二人きりの時はそう呼べと言ってきかないのだ。それ故、和己は当主のご子息のわがままを聞き入れ、人前とそうでない時とで呼び分けている。
 奇特なことに準太は、呼び捨てにされる方が気に召すらしく、たびたび和己が一人のところを見計らって声をかけてくる。和己が一人で居るところを見つけるのが、呆れるほど上手だ。庭に居ても、ボイラー室にいても、どこにいても準太は和己を見つける。
そういえば昔から、隠れ鬼だけはいつも準太にかなわなかった。他の遊びは、大して上手ではなかったのだけれど。
「和さん、あの・・・」
 いつもと、どこか違うということが伝わってしまったのか、準太がなんだか話しかけにくそうにしていると、廊下の角の向こうからぱたぱたという軽い足音が聞こえてきた。
 明るい萌黄色の市松花菱の紬を着た少女が、こちらに向かって走ってくる。走らないように言っても、どうしもこの娘はこの癖が抜けない。
少女が和己の姿を認めるとそのかわいらしい顔にホッとしたような笑顔を浮かべた。
 和己よりも七つ年下で一年前から高瀬のお邸に奉公に来た娘である。
「和さん、早くお勝手へ来て頂戴。今日は人手が少なくて・・・あっ!わたし・・・お話中に、し、失礼しました!」
 和己と一緒にいたのが、準太だと気がついたのであろう。主と話をしている間に割って入ったことに恐縮して小さな体を更に縮めてぱっと頭を下げた。
 準太はちらりと和己を見た。何か言いたげではあったが、頭を下げている女中に気にしないようにという言葉だけかけると、その場から去っていった。
「準太様・・・素敵だぁ」
 少女は少しだけ頭を上げて、うっとりと溜息をつきながら、準太の学生服の後ろ姿を目で追っていた。この館の未婚の女中はみな、一様に熱い目で準太を見ている。それだけに留まらず、準太は近隣に住んでいる女学生たちの憧れの的だった。
「和さんは、いいなぁ・・・」
 このように、羨ましそうな目で見られるのは慣れていた。若い女中は皆一様に和己をこんな眼で見る。。
「和さんは、準太様のお気に入りで、羨ましいだぁ」
 訛交じりに言われて、和己は少し笑ったが何も言わなかった。
 準太が和己に、気安い態度をとるのは当然といえば当然なのだ。
 和己がこの高瀬のお邸の敷居をはじめて跨いだのは、まだ準太が腕白な盛りの頃。
 和己は子守娘としてここへ奉公にあがったのである。
 今でこそ奥様にも執事にもそれなりに信頼されてるか、実は和己は奉公にあがったその初日に暇を出されても仕方のないようなことをしでかしたことがある。
 今では笑い話だが、こうして思い出を懐かしめるのも、あの時に準太のおかげで暇を出されずにすんだからだ。準太のおかげで、和己はこうして長きに渡り高瀬の家に奉公を続けていられる。
「和さんは、準太様のねえやだから・・・仕方ないか。私も準太様のねえやって呼んでもらえるならば、もっと早く生まれたかったなぁ」
 いかにも少女らしい言い方に、思わず目を細めた。自分が持ち得なかった可愛らしさだった。それが、和己には少し眩しい。
 しかし、和己は準太に『ねえや』と呼ばれたことは一度もない。準太は、少し甘えたような声で『和さん』と呼ぶのだ。
 もう、十年近く側に仕えているが、それは稚い頃から変らない。
「さぁ、行こう。お勝手で呼んでいるんだろう?」
 まだぼんやりと溜息をついている歳若い女中を促がし、和己は勝手口へ急いだ。

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*2月3日の桐青夫婦茶碗おかわり!発行予定の新刊のプレビューです。
詳しいことに関してはinfoをご覧頂くかメールでお問合せ下さいませ。
ここまでお読みいただき有難うございました!

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