洋灯を置き、花鋏を右手に持って・・・和己は手を止めた。
 去来するのは、一高の徽章が輝く帽子を目深に被った青年の憂い横顔と、無邪気に笑う子供の顔。
 どちらも、大切だった。どちらも、愛おしかった。
 しかし、それがいけない。昔と同じく愛しいはずなのに・・・何かが違ってしまった。
 十に満たない子供を愛するように、十八の青年を愛せない。
 可愛くて仕方がないのは同じなのに・・・何故、こんなにも違うのだろう。
 今も。


病める薔薇 3


 想いが白い薔薇を目の前にした和己を悩ませていた。
 冷え切った指先から、花鋏が滑り落ちた。悴みそうになる指を一度結んで、それから開く。その手をゆっくりと花へと伸ばした。白い薔薇の濃緑の茎に触れる。掌に棘を感じるが、かまわずじわりと力を込めて握った。これ以上握る手に力を加えたら、細く尖った棘の先端が皮膚を突き破るだろう。
 それでもよかった・・・いや、むしろそれこそを望んでいた。
 パキリ、と音を立てて和己は白い薔薇を手折った。
「あ・・・」
 闇夜にあって、さらに黒いひと雫が和己の白い薔薇を摘んだ掌から手首にかけてつぅっと流れた。
 己の血の濁りに驚いた。驚きの次には、痛みが襲ってきた。
 掌が脈打つようだった。傷は小さいはずなのに・・・棘(いばら)でできた傷は想像よりもずっと痛かった。
 和己は眉根を寄せて痛みを甘んじて受けた。そして、瞳を閉じて、あの日を思う。
 あの幼い子供も、こんなに痛かったのだろうか。いや・・・子供の柔肌だ。もっと、痛かったに違いない。
 それなのに、泣き虫だった子供は痛いという顔ひとつせずに薔薇を和己に差し出してきた。
 血を流しながらもオレの花嫁さんになって、と言った。
「は・・・」
 笑おうと思ったが、それは失敗した。
 和己の頬に、冷たいものが伝い落ちてきた。雨ですっかり濡れた髪から、流れ落ちたもので。涙ではない。
「馬鹿だな・・・」
 こんなに苦しい思いをするなんて、自分は馬鹿だ。戯言を忘れられずにいるなど、愚の骨頂。
この掌の棘の苛みで、胸の痛みを掻き消して欲しいなどと・・・。この程度で、この煩悶を誤魔化せるはずもないのに。
 左手に薔薇を持ち替えて、闇夜に掲げた。
 芳しい薔薇の香が、和己の鼻をくすぐった。それすらもやるせなかった。
「いっそのこと、こんなもの・・・」
なければよかったのだ。
 和己は、手にした幾重にも重なっている白い花弁を握り潰そうと花に手をかけた。
しかし・・・夢の様な儚く脆い、だからこそ美しい花弁を冒涜することはできやしなかった。葬るには、あまりにも想いが強すぎた。行き場をなくした掌にぐっと力をこめて拳を握る。
「・・・ゅ・・ん・・・ぁ」
 その名とともに、かたく握った掌からぽたりと赤く黒いひと雫が滴り白い薔薇の花弁を穢した。
 


「あらまぁ、和さん・・・!」
 邸に戻った和己を見て、女中頭が絶句した。
 当然だろう。
 雨に濡れ、泥で汚れた白い割烹着を見れば誰もが似たような反応を示す。
 水気も傷も使用人出入口に用意しておいた手拭いでざっと拭いた。足袋も脱いだが、流石に使用人役宅まで戻ることは出来なかったので、着物までは変えられなかった。
「すんません、遅くなって。すぐ、コレを花瓶に生けかえますよ」
 胸に抱いた十数本の四分咲き、五分咲きの白薔薇を見た。
「そんなに、たくさん摘んできたの?」
 女中頭が少し表情を曇らせる。
 いつまでもなれることのできないスリッパを履いた足が冷えていた。それだけじゃなく、全身が冷えていて少し辛く早く一人になって自らを暖めたかったが、それを悟らせない笑顔で和己は答える。
「客室と正面玄関ホールの花が、そろそろ終わるから変えようかと思って多めに摘んできたんすよ」
「ああ、そうね。そういえば前に生けた花はそろそろ盛りが過ぎるわね。ありがとう、和さん。いつも気が利くから助かるわ」
 女中頭が『生けておくわ』と手を出してきたので、和己はその手に薔薇を渡した。
「お疲れ様、和さん。一度役宅に戻って着替えをしたら夕餉になさいなさいな」
「はい」
 女中頭の労いの言葉に軽く会釈して和己は、踵を返し再び使用人出入口へ向った。
和己の背後から聞こえてきた女中頭の不思議そうな声に足を止めた。
「あら・・・この花びら、どうしてかしら?一枚だけ赤くなっているわ・・・」
 和己は振り返りはしなかった。ただ、右手を胸の上で軽く握ると、何事もなかったかのように再び飴色に光る廊下を、静かに歩き始めたのだった。




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