「三橋・・・君」
 初めて発音する音の羅列は、たったの三音なのに妙にぎこちなくて・・・『君』をつけるかどうかを迷って、掠れてしまった。オレが同い年にこんな気遣いをするのは投手という生き物に対してだけだ。



SPLASH LIBIDO IN BLUE SKY 【preview】
 



 オレよりも小さな身体がびくんと大きく揺らいで、ちょっとだけ振り返った。完全にこっちを向かないで、首だけを巡らせて人差し指で自分のことを指している。まるで、呼ばれたことが信じられないって感じだった。
 きょろっと見開かれた眼が、まるで臆病な猫みたいだ。
「ちょっとさ、投げてみない?」
「ヘ!!?」
 ひし形になった変な口から奇声が上がった。驚いたみたいだったけど、その中に微妙な期待のようなものが見えたから、いけるかなと思った。だから、「やめとき・・・ます」と言われた時には、はぁ?という非難めいたのが口を突いて出そうになるのをこらえるのに苦労した。黙って様子を窺っていると今度はいきなりべそべそと泣き始めたから、オレはちょっと引いた。
「泣かすようなこと、言ったか?」
 側に居た奴に聞いてみると、ううんと首を振られた。
 だよな、オレは悪くない。これでも、精一杯気を使ってる。だとしたら、理由は別のとこにあるんだろう。
「ちが・・・投げても、イミ、ないから」
 理由を聞けば、『贔屓でエースになったから』だった。
 オレは贔屓する監督ってのは、ヒデェんじゃねぇかって言ったら、膝を抱えて泣きながらも贔屓でエースをやっていた男が首を振った。
「カントクのせいじゃない・・・自分から降りたって、部を辞めたっていいんだ。そうしなきゃダメだって、わかってたのに・・・・オレ、マウンド3年間譲らなかった!」
 へぇ・・・コイツ、人を責めるより自分を責めるタイプなんだ。
マウンドに噛り付いて、三年間離さなかった、か。ある意味、根性あるんだな。
責任を他人に転嫁するようなヤツよりは、マシかなと思ったが・・・そう単純なもんじゃなかった。
 オレのせいで負けただの、みんな野球が嫌いになっちゃっただの・・・グネグネグネグネと続いたんだよ。
 周囲の奴らも、痛々しそうな目で見てるのになんで気がつかねぇんだ?オレも、ちょっと辛抱するのがキツクなってきた。
「お前マジでウザイ!」
 言ったら、眼に見えるほどに傷ついた顔をされた。地面に突いた両手の間をじっと見つめるように俯いたヤツ顔は見えなかったけど、ぽたぽたと零れる涙が、乾いた土に歪な水玉模様を作るのを見ていた。そして、薄い色をした、ぽわぽわした頭のつむじを見下げながら、オレはなにやら腹の底から何かがじわっと沸きあがってくるのを感じた。ソレがなにかは、わかんなかったけど。
「マウンドゆずりたくないのなんて、投手にとって長所だよ」
 フォローのつもりだったけど、本音でもあった。ぶっきらぼうな言い方になってしまったけど、泣いてたヤツが目元を赤くしたまま顔を上げた。
「まぁ、ヤナヤツなのは確かだけど。投手としてなら、オレは好きだよ」
 マウンドを譲らないほど投げることが好きなヤツは、投手として嫌いなタイプじゃない。
「・・・スキ」
 聞き取れるか、聞き取れないか位の小さな声でポツリと言って立ち上がって謝った。視線は合わないまんまだ。
「ごめんネ」
「は?」
「投げる」
 やっと、その気になってくれたか。オレはうし!と頷いたが・・・。
「けど、ガッカリ、させる、から、あやまっと、く」
 眼を合わせないどころか下を向いたまま、オレの目の前を通り過ぎてマウンドへ向かって行った。
 投手やるヤツってみんなクセあるけど、こいつは相当ヘンだぜ。
 いろんな投手のタイプを見てきたけど、どちらかといえばウジウジメソメソする根暗なタイプは少なかった。感情のセーブが全くきかないヤツだ。大丈夫かよ?
 とにかく、今は投手はコイツしかいないんだ。投げてみてくれなきゃ、始まんねぇよ。
 オレはいったんベンチまで戻りメットとミットを持って、グラウンドへ行った。三橋はグローブをきちんと嵌めて、マウンドに立っていた。
 三橋はざっと、音を立てて土をならすと空を仰いで、目を閉じた。そんなポーズは、さまになってやがる。オレの盛った土の感触を味わうようにしているその表情が、印象的だった。
「春休み中は、グランド整備で終わったんだ」
 声をかけると、ぱちっと大きな目を見開いた。やっぱり、コイツ、猫みたいだ。
「外野まで、手回ってないでしょ。マウンドは、どんな投手が来んのかなーとか考えながら土盛ったわけ」
 オレに投げる投手が立つマウンドを自らの手で、祈るような気持ちを込めて作った。
 どうか、いい投手が入ってきますように。何度も心の中で繰り返した言葉だ。
爪の間に土が入ってしまっているオレの指を見て、栄口が手伝おうかと声をかけてくれたけど、それをやんわりと断った。ここは、どうしてもオレ自身の手で最初から終わりまで整備したかった。そんなオレに、栄口は「そっか、じゃあ頑張れよ」と言ってくれた。オレがどんな気持ちでここを作っているのか、意外と聡い栄口は気づいていたのかもしれない。
「オレの作ったマウンドはどーよ」
 それなりに・・・というか、すっげぇ思い入れがあって作ったマウンドの上に、投手が立っている。
 コイツが、オレの投手だったらよかったんだけどな・・・。やっぱ、オレの作ったマウンドのプレートを一番最初に踏むのは、オレの投手であって欲しい。
「・・・良いです」
 それなのに、コイツはやっぱり俯き加減で眼をあわせようとしない。
 やっぱ、コイツはオレの投手じゃないのかな。
 そんな風に思ったことは微塵も出さないで、ボールを渡した。投げるの久しぶりだろって声をかけたら、投げていたと答えた。中学卒業後の自主練は、入学より一足先に高校の部活の方に顔を出して使いっぱしりを兼ねて練習に参加させてもらうとか、中学の部の方でOB扱いで練習に混ぜてもらうっていうのが一般的だ。あとは、同輩同士で自主練のメニュー組んで地道にやるってのもありけど・・・話を聞けば、コイツは中学の奴らと一緒に和気藹々と自主練が出来るような仲じゃなさそうだし、高校の野球部は存在自体を今知ったくらいなんだから、やっぱ一人でやってたんだろう。シニアに入ってるわけでもねぇしな。
ちょっとだけ感心して偉いじゃんと、褒めたらまた涙目になって足元がぐらぐらと揺れてた。
プレッシャー与えたか?ホント扱いにくいヤツだな。
期待しないから、適当に投げろと言ってオレはマウンドからきっちり18.44mの場所に座った。
球遅いのはホントだろうし、こんだけ扱いにくいとなると・・・わざわざコイツを使うこともないかな・・・。
 ミットを構えて、マウンドを見ると・・・オレは流石にうんざりした。
まだ、涙ぐんでやがる。また泣くのかよ?そこに立って、泣くヤツなんて投手としてどうよ?ぐずぐずと泣き止むのを待つほど、こっちは暇じゃねぇんだ。
しかし、幸か不幸か・・・オレがキレる前に、アイツはすぐにグローブをしていない右手の指先で涙を払って、オレの方を見た。
その眼は・・・紛れもなく、投手の目だった。躊躇いが見え隠れしてるけどその奥に投げたい、という気持ちがあるのが分った。だから、オレは立たずにそのままミットを構えた。
さぁ、投げて来い。見せろよ、オレに、お前の投球を・・・三橋!
 三橋はセットポジションに入ると、ギュッと唇を噛んで左足をすっと上げる。真っ直ぐに上がる足の動きが綺麗だった。動きは大きくない。そして、連動するように腕を引き反動をつけた。
ノーワインドアップでのスロー。
リリースの瞬間が、妙に曖昧に見えるのはなんでなんだ?
 飛んでくるまっすぐな球は球威にも球速にも劣る。これが、三橋の速球かと思うと、なんだか味気ない。・・・もともと期待していなかったけど、やはり波乱はナシ、だ。
少し、構えた場所よりも低く来そうだったので、ミットの位置を微調整した。あとは、オレの手に収まるだけ・・・のはずだった。
 え?
 オレは我が目を疑った。
 ボールが浮く・・・っつーか、三橋のストレートは、落ちてこねぇんだ。
 オレは、再びミットを動かした。とっさに、先ほど構えていた位置まで戻した。その瞬間に、ボールはミットに収まった。速度が遅いおかげで、零さずにすんだけど・・・なんなんだ、今のボールは?
 投げ終わった三橋の背後から、「おせ」という言葉の石が投げられた。その石に当たって三橋は、変な顔をして、よろめいた。そして、じりじりと後退する。そのままじゃ、マウンドを降りて、どこかへ行ってしまいそうだった。
「三橋!」
 呼んで、こっちを向かせる。アイツの振り向きざまに、ボールを投げ返した。とっさに、飛んでくるボールをグローブで捕って、アイツは戸惑った。
 まだだ、三橋。まだ、終わんねぇぞ。もっとよく、お前を見せろよ。
 オレは、無言で構えた。今度は、先ほどよりやや右上、アウトハイ。
 三橋は、一度ボールを見ると、躊躇いつつも何も言わずに投げた。
 一直線に、指定のコースへとボールが飛んでくる。矢張り低い。思わず、ミットを動かそうとしたが、ぐっと我慢する。オレは、次の瞬間自分の読みが当たっていたことを確信した。
パシッと軽い音がして、ミットにボールが届いたからだ。
結局、オレがボールを追ってミットを動かすことは無かった。
アイツは、コースを狙って投げてるんじゃねぇんだ。オレの、ミットを狙って投げてんだ・・・!
マジかよ・・・!
おちつけ、オレ。はやるな、もっとちゃんと試さなけりゃ、本当かどうかわかんねぇよ。
これはどうだ?これは?
オレは外、内の二分割の次に四分割で投げさせ、次は縦を二、横を三の六分割にしてミットを構えた。
全て、欲しいと思ったところにボールが入ってきた。
自分の手が震えているのが分った。それに気づくと、背中にも腕にも足にも股間にもゾクゾクときた。
武者震いってヤツを、オレは初めて体感した。
コイツのコントロール・・・神憑ってやがる!!
ゾクリと背筋が湧き上がった。興奮が、オレを滾らせる。
 もしかすると、もしかするかもしんねぇ・・・!
 何球か、放らせてみると・・・三橋の持ち球には三、四種類もの変化球があった。
 確かに、コイツには速球も剛球もない。でも・・・オレが理想としてるコントロールといくつかの変化球を持っていた。
 身体の中から、ぶわぁっと何かが吹き上げてくる。誰もいなきゃ、勝利の雄叫びを上げたいくらいだ。9回裏、ツーアウトでランナー三塁、一発出れば逆転負けの勝負で、相手の四番を空振り三振に切ってとった、そんな気分だ。


*9月2日発行予定の新刊のプレビューです。
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