今日は、『誕生日おめでとう』という言葉を何度聞いただろうか?
 少なく見積もっても、12回は聞いた。
 かくもめでたき、10月16日。
 西浦硬式野球部の4番打者である田島悠一郎の誕生日だった。


言えない言葉



 田島はもっと大騒ぎをするのかと思っていた。会う人会う人に、『今日、オレの誕生日なんだ!』と触れ回るのかと思っていた。
 しかし、田島本人はおとなしいもので、自分から今日が誕生日であるなんていうことは一言も言わなかった。勿論、それは花井の知る範囲でことで・・・部活中や昼食を一緒に摂った昼休みのことだ。授業中や、昼以外の休み時間にはクラスメイトなどには言っていたのかもしれない。
 しかし、本人が吹聴しなくても部員たちは田島の誕生日を誰一人として忘れていなかった。朝練の時に、我先にと田島に『誕生日おめでとう』と祝いの言葉を贈っていた。
 この部で、10月16日の午後9時の段階で、田島の誕生日のことを口に出していないのは花井だけであろう。
 花井とて、田島の誕生日を覚えていなかったわけではない。忘れるはずもない。
 田島は、春か夏の生まれだと思っていた。それなのに、秋の生まれだと知って、驚いた。何て、似合わないのだろうと思ったからだ。
 しかし、花井が誕生日の話題に触れなくても、田島はいつものとおりだった。気にしているそぶりもない。
 それが、花井の気持ちを更に重くした。一度、言いそびれてしまうとなかなか言い出しにくいものだ。田島の方から『お祝いしてよ!』と言ってくれればきっかけになるのに。
 花井は、誰もいない部室で一人溜息を吐くと、肩にショルダーバックを掛けて部室を出た。扉を閉めると、鍵穴に鍵を差込半回転させた。
 カチリ、という小さな音がしたことを確認したうえで、更にドアノブを回してみるが開く気配は無かった。
 10月にもなると、ドアノブの感触すら冷たいのだなぁと花井は他愛のないことを思いながら自転車置き場へ向うべくその場から歩き出した。
 部室からHR棟の裏の目的地までゆっくりと歩いていくと、自転車置き場が見えてきた。
 人の気配がなかった。きっと、部の連中は遅刻坂か校門の前で待っているのだろう。
自転車置き場のトタン屋根に一定間隔をとって数箇所、据えつけられた小さな電球の灯が、がらんとした辺りを照らしていた。
持ち主に忘れられた幾台かの自転車が、ぽつぽつと置かれている。もう、ずっとここに放置されている自転車だ。春にも夏にも、同じ光景を見たけれど・・・今日に限って、何故こんなにもそれが物悲しく感じるのだろう。
 1年7組の自転車置き場が見えてきて、花井は足を止めた。
 田島が、いた。たった一人で花井の自転車の横に腰を下ろし、じっと地面を見ていた。
 花井は、思わず泣き出しそうになった。
まるで田島が、置き忘れられた自転車のように見えたから。
「田島・・・!」
 気付くと、大きな声で呼んでいた。
 田島は、すぐ気がついて顔を上げたけど、何も言わなかった。にこりとも、しなかった。いつもは、はじけるように笑うヤツなのに。
 花井は短い距離だというのに、馬鹿みたいに必死になって走った。田島の側にたどり着くまでがじれったくて仕方がなかった。
 逃げ水でも追いかけているような気持ちにすらなった。
 不安に駆り立てられて田島の側に駆け寄ったが、田島は顔を上げただけで何も言わなかった。
 ただ、そのそばかすの薄く浮いた顔で花井の顔をじっと見つめていた。
 だから、花井も何も言えなかった。目を反らしてしまおうと思ったが、それをヘンな矜持が邪魔をした。
 どのくらい、見つめ合ってたのだろうか。田島がようやく口を開いた。
「なに、そんな泣きそうな顔してんだ?」
「なっ!?」
 田島の言葉に、カッなって一瞬、手が震えた。目の前が赤く染まる。びぃぃんと、弛んでいた弦が張り詰めるような緊迫感が当たりに一瞬して広がった。
 ムカツク、殴ってやりたい、鬱陶しい、気に障る。
 一瞬にして、いくつもの真っ黒な感情が吹き上げてきたが、どれもこれも違うような気がした。全て、花井の言葉ではない。花井の感じているものを正しく表現していない。
 今、目の前に田島さえいなければこんなにドロリとした気持ちを知らなくてすんだのに。田島と、出会わなければ劣等感などというものは知らなくて済んだのに。
 田島と出会わなければ・・・よかったのか。
 花井は、震えを押さえるように手に手を重ねた。それでも、震えている手で手を押さえたところで、収まるはずがない。
 ・・・なんて、消えてしまえばいいのに。
「オレさぁ・・・」
 頬が凍てついてしまいそうなほどの、空気を田島が裂く。
「未熟児だったんだよな」
 唐突に、そう言い出されて花井は警戒した。もう、田島の突拍子のない言葉にも随分と驚かなくなった。備えることが出来るようになったと言ったほうがいいのかもしれない。
 花井は自分の心に十重二十重と垣根を作り、堅固に守りを固めた鉄の城に籠もる。
「ホントは、オレが生まれる予定の日は二か月くらい先だったんだって」
 語る声は、いつもより幾分低めで、落ち着いてさえいた。
 田島が、何を言わんしているか花井にはわからなかった。それが、また苛立ちを増長させる。しれやられてなるものか、と花井は小さく唇を噛んだ。
 「でも、オレは生まれちゃって。1400gくらいっきゃなくって、障害が残るって言われてたんだ。下手すると、うまく育たないかもしれないって産科の先生に言われたんだってさ」
 絶対に、動じない。何を言われても、何をされても・・・田島に踊らされてなるものか。
「だから、オレは自分が無事にここまでおっきくなれて良かったーって思うんだ。他のヤツらからみたらオレはそんなに、おっきくないけど、オレはオレを見て、それなりにおっきくなったなぁって思うんだぜ?ホント、小学校入る前の写真とか、マジで細っこくって、ちっちぇーの」
 田島が、オレを見上げて闇夜なのに眩しそうに目を細めた。
「生まれて一週間、NICUに入って生死の境目うろついてたらしいんだ」
 ねぇ、と田島が呼ぶ。
「ねぇ、花井。オレ、そのまま死んじゃえば良かった?」
 幾重にも張り巡らせた防衛線を、たった一言で突き破られる。
「花井は、オレと会いたくなかった?」
 息も出来ず、考えることも出来ず、ただここに立ち尽くす。
 ねぇ、花井?
 問いかける声が、まるで数万の矢のようだった。射抜かれた花井の心臓は、まるでハリネズミのよう。
「馬鹿、野郎・・・」
 それは、己自身を罵った言葉だった。
 花井は、自分の目から涙が流れ落ちるのを感じた。この寒さの中にあって、自分の体内からあふれ出したそれは唯一の熱だった。
「〜〜〜っ」
 こみ上げてくる感情のままに、手放しで泣いた。
「ば、か・・・やろぉ」
 田島に言われて、初めて・・・凄まじい恐怖を覚えた。
 出会わなければ。消えてしまえば、なんて。
 自分で思っていたくせに、田島の口から聞かされるとこんなにも花井はこんなにも簡単に傷ついてしまう。
「はないー」
 見上げてくる田島がぎゅぅっと眉尻を下げて、まるで子犬のような顔をした。
「はないー、泣くなよぉー」
 泣いた顔を見られるのが恥ずかしい、そう普段の花井なら思っただろう。今だって、そういう気持ちはある。でも、今は田島から視線を外したくなかった。
 見ていないと・・・目の前の田島が、夢か幻のように掻き消えてしまいそうだったから。
「はないー」
 田島は立ち上がり・・・それから背伸びをした。
 スニーカーの踵を持ち上げて伸び上がると、花井の頬に唇を寄せ、涙の軌跡を辿るようにぺろりと舐め上げた。
「涙、あったけぇの」
 田島が、にかっと笑った。
 まるで、闇を裂く光のようだった。
 花井の感じる熱が、ふたつに増えた。
 田島の舌先だけが、花井に触れる。
 他には、指一本触れずに・・・その柔らかく暖かい粘膜の感触だけが花井に田島の熱を伝えた。
 触れた部分など、ほんの僅かなのに・・・田島の存在を強烈に感じた。
「ばかやろーっ」
「はないー、泣くなってー」
 田島はもう一度、花井の顔を舐めた。はやり、暖かかった。  
 熱は、生きている証だった。
田島と花井は今、この瞬間ここにともに在る。
 その事実だけで、こんなにも泣けてくる。
「田島・・・」
「ん?」
「・・・やっぱ、なんでもねぇ」
 結局、言いたい言葉は言えなかった。
 そのかわり、花井は田島を引き止めた。
「もうちょっと、ここにいねぇか?」
「なんで?」
「ほ、星でも見ねぇか?」
 なんでと聞き返されて、とっさに出た言葉に夜空を見上げたが星はおろか月さえも出ていなかった。
 花井は、自分の言ったことの間抜けさに、穴があったら入りたいほど恥じ入ったが、田島は今日一番の笑顔で「おう!」と返事をした。
 そして、田島と花井は揃って腰を下ろし、何もない夜空を長々と見上げていた。

END
 
 

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