昨日の練習試合、アイツの打率は5割きっかりだった。
 どんな場合だって、6打席で3回もヒットという記録は驚異的だ。あとの3回分の内訳は、犠牲フライとファーボールと敬遠だったので嫌になってしまう。
 決して、相手の投手の調子は悪くなかった。実際にオレの打率は2割ちょっとだったし、他の連中だって3割いっていない。アイツが打ち過ぎるのだ。よっぽど、アイツとあの投手の相性が良かったのだろう。
 一点先取されたまま迎えた8回表。7回表まで西浦は打線が上手く繋がらず0点だった。どうしても一点欲しいところで、アイツが打った犠牲フライの行方を、俺はネクストバッターズサークルから追っていた。
 高く打ち上げられたボールは、ふわふわと風に流されて・・・結局は深く下がって守っていた外野手のグローブにおさまったけれど。
 オレは、どきっとした。
 打球は、どこまでも、行ってしまいそうだった。そのまま、あの高いフェンスを飛び越えて場外まで
届きそうにすら思えた。
青空に白い軌跡を描くボールを見上げると、汗が額から顎まで流れ落ちてきた。
 わけのわからないモノが、こみ上げてきてぶるっと震えた。
 その震えの正体を、俺は知りたくない。



H and L 1


 

 
 月曜日の練習の後は、何故こんなに気怠いのだろう。
 いや、いつもこんな気分になっただろうか。疲れが抜けきっていないのか、ただ単に調子が悪いだけなのか・・・。
 俺は、そんなことを考えながら汗だくになったアンダーの襟ぐりから頭を抜いた。汗がやっと引いてきたところだから、裸ではちょっと寒いくらいだ。風邪なんか引く時期じゃないけれど、用心するに越したことはない。早く着替えよう。
 だけど・・・それは、唐突にやってきた。
「・・・!!」
 ぺたり、と何かが背中に触った。
 触られた場所から、伝わる他人の皮膚の感触にゾクリとした。
声もなく硬直して・・・すぐに奥歯をぐっと噛み締めて、睨みを利かせながら振り返った。
誰だよ、クソッ!驚かせやがって!
でも、怒りは直ぐに萎えてしまった。よく考えれば、こんなことするヤツは限られている。
 振り返ってみると・・・、そこにいたのは予想にたがわず田島だった。
 俺は田島と目が合って、文句を言おうかと思ったが、言えなかった。
 田島の目が、ぐりっと見開かれていて・・・それは俺の知る限りではこの上もなくコイツが真剣な時にする眼だったからだ。
じぃっと見上げるその視線に、全てを見透かすような、暴かれるような気がして俺は内心たじろいてしまった。やましいところがあったから。昨日の試合で田島の打った犠牲フライを見ていた時の俺の感情を、心の奥底に押し込めて見ないようにしていたから。
だから、何も言わずに捻った体を元に戻し、ロッカーに向きに直った。何か、言われると思ったけど耳に入ってくるのは周りの雑音ばかり。期末テストのことだとか、昨日の試合のことだとかでそれそれがそれぞれの話に夢中になっている。周囲の様子を窺っても、実際に俺と田島のことなんか誰一人見てはいなかった。
 どこからか阿部の怒声と三橋の悲鳴が聞こえてきたけど、動けなかった。聞こえてはいたけれど、実は聞こえていなかったんだろう。それくらい、俺の感覚の中には田島でいっぱいだった。
 田島の手は、俺の背中に触れたままになっていてその温度を伝えていた。
 手が少しだけ動いた。まるで俺の背中の筋肉を探るような、辿るような五指の動きだった。
 田島の掌は硬くて大きかった。
初めて、俺は田島のグリップを握る掌を識ったような気がした。今まで、瞑想する時に手を繋いだことがあるけれど、俺が感じたのはそれとは又別のものだった。
大して感じなかったのに、数秒のタイムラグを経てじわりと伝わる田島の熱。
膚が汗ばむ。
多分、俺の熱も田島に伝わっているだろう。
 こんなに近くて、こんなに生々しくて・・・すべてが筒抜けてしまいそうだ。
 引きたい。引き下がってしまいたい。
 この手を振り払えばいい。今すぐ、田島を拒めばいい。やめろよって怒って、睨んでその後にちょっとおどけてみせればいい。
 そんな脅えすらも感じ取ったのか、背中を触る手つきが大胆になった。
 筋肉の一本一本を探すような触り方をされて、そして肩甲骨を?み出すかのように摘まれた。
 そして、首から背中のラインを撫でた・・・まるでその下に在る脊椎の形を確かめるように。
 頭の中に、金属バットが硬球を打ち上げる・・・あの独特の突き抜ける音がリフレインする。
「やめろよ・・・」
 俺は歪めながら、そう言っていた。制止をしたかったのは田島に対して、自分自身に対してか、それは俺にも分らない。
 その結果、田島は手を止めたけれど、俺は振り返ることが出来なかった。
振り返らなきゃいけないのに、振り返って言わなくちゃ。
 何すんだ、お前!人の背中で遊ぶんじゃない!って怒鳴るんだ。
 動きは止めたものの、田島の手はまだ俺の背中にある。
 早く、言わなきゃ。早く・・・。
「ぁっ・・・」
 それなのに、俺の口から出たのは、叱責でもなく怒号でもなく・・・微かな吐息だけだった。田島の手が俺がアクションを起こすよりより先に動いた。
 しばらく、その手は何かを探すようにゆっくりと動いていたが、じきに止まった。背中に感じる田島の温度は、もう温かいをとうに通り越していて・・・熱くて痛い程だった。
「・・・ぃな」
 らしくない小さな田島の発した音は、掌を通って直接背中に・・・心臓に届いた。なんと言ったかは分らなかった。言葉の意味なんて頭に入らなかった 他のことに気をとられていた。・・・田島が俺の背中で探していたものが分ってしまった。
今、田島の掌が触れている場所はきっと心臓の位置。薄い皮膚と筋肉を隔てたすぐそこに心臓が在る。田島の手と俺の心臓の距離はきっと10センチもない。?み出すことだって、できるじゃないかと本気で思ってますます恐くなった。
「花井は、いいよ・・・」
 今度は、ちゃんと言葉を理解できた。ただ、意味はわからなかった。
 田島の手は、形を確かめるようにゆっくりと肩から二の腕を撫でた。そのくすぐったいような、こそばゆいような感覚に胸が苦しくなる。心臓がぐっと圧迫されるように。
「うん、やっぱ・・・お前いいよ」
俺の何がいいって言うんだよ?俺は、お前と違って才能なんて無い。練習試合の成績だって、これで5番かよって思うことがあるくらいだ。中学の時はこんなこと無かった。4番に求められるものを出せていた。野球だけじゃない。お前は、打って走って笑って・・・すかっと生きてるじゃん。俺の何がいいんだよ。高校に入ってから俺は自己嫌悪ばかりだ。自己嫌悪なんて・・・お前に出会って初めて知ったんだよ。
近いことが、疎ましい。感じる熱が、苦痛になる。
それでも、俺はここに居る。
田島悠一郎という存在に強烈に惹かれるのに、恐くて羨ましくて鬱陶しくて・・・時折畏怖すら感じる。
 俺の気持ちなんて、田島にはわからないだろう。
「俺さ、お前の背中好きなんだ」
 でも、俺だって田島の気持ちなんかわかんねえ。田島がどんな顔して、こんな声を出してるのかだってわかんねぇ。いつもと代わらないのに、いつもより少し、真剣で熱っぽい声。
振り返れば、分るのか。少なくとも、どんな顔をしているのかは見ることが出来る。知りたいくせに、俺はいつまでも振り返ることができない。
こんな、灰色の俺を好きだなんて言うな。
 涙が出そうになって、『チクショー』と心の中で罵った。誰を罵ったのかなんて・・・そんなのわからない。
 まただ。また、あの得体の知れないモノがこみ上げてくる。
 ソレは、嫌だ。ソレは・・・知りたくない。
「俺、花井が好きだ」
 青空に打ちあがる白球・・・追加点。ネクストバッターズサークルにいた俺が見た、走りながら田島の打球を追う眼。
 俺はギュッと目を閉じた。
 ちくしょう・・・。
 とうとう、ソレは表面張力を起こし、決壊し、溢れて流れ出した。 


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