「薔薇・・・ですか?」
 数人のコックに混じってお勝手で夕餉の配膳で忙しく立ち回っていた和己に女中頭が小間使いを頼んできた。
 和己は水道の栓を捻って水を止め、濡れた手の水気をきると、割烹着の裾で軽く拭いながら小さな女中頭を見下ろした。
「ええ、薔薇をね。一輪でいいの」


病める薔薇

 

 庭から花を摘んでくるように、ということだった。
 春の宵とはいえ、雨がしとしとと降っていて邸の中でさえ冷えている。そんな夜だった。
 だが、そんなことは和己にはどうでもよいことだった。寒かろうが暗かろが慣れた庭だ。灯を持っていけば、花を摘むのも難しいことではないだろう。
 だが、しかし。
「ええ、暗いし雨が降って足場の悪いなかで悪いけど行って来てちょうだいな」
 和己の躊躇いを、どうとったのか女中頭が少し申し訳なさそうな顔をした。
「薔薇じゃなきゃいけませんか?」
「和さん?」
「あの・・・花を摘みに行くのはかまわないんですけども、今の時分ならば、牡丹や都忘れ、それからひなげしなんかが綺麗なんじゃ・・・」
 女中頭の好みが牡丹だということをわかっていて、そう言ってみた。
 しかし、和己の期待通りにはならなかった。
「いいえ、薔薇にしてちょうだい。奥様がね、お部屋に薔薇を飾りたいと仰るのよ。白い薔薇。和館の方ならば牡丹でいいと思うんだけどねぇ」
「・・・わかりました」
 よりにもよって、白薔薇を一輪かと、和己は小さく唇を噛んだ。


 
 花鋏と洋灯(ランタン)を持って、使用人の出入口のドアーを開くと、まるで忍び込むかのように寒気が邸の中へ入ってくる。
 その冷たさに少しばかり驚いて慌ててドアーを閉めて外へ出た。
 最初はなれなかった洋灯に火を入れながら、やはり田舎で使っていた提燈の方が手に馴染むと苦く笑った。
 笑った拍子に、闇が白く煙った。
 音もなく夜の春雨が、身体の芯からじわじわと冷やすような寒さで和己の指先から熱を奪ってゆく。
 このままじゃ、手が悴んでしまいそうだ。愚図ついていると風邪をひいてしまう。早く用事を済まさねば。
 そう自分に発破をかけるとなかなか動けないでいる足を強引に動かし、使用人出入口から冷たい闇夜に一歩足を踏み出した。
 高瀬家の洋館の正面玄関の前に広がる庭の一角に、薔薇園がある。
 しかし、和己が向った先は使用人出入り口から、ぐるりと邸の裏手に回ったところにある裏庭だった。
 高瀬家の使用人は薔薇園から薔薇を摘むことはしない。
 奥様の希望で造園された薔薇園は、観賞用であって、薔薇の一株一株すべてが計算されて植えられている。綿密に作られた薔薇園自体が、奥様の作品のようなものなのだろう。
 使用人出入口から、五分も歩くと裏庭につく。洋灯のランプの微かな光が、ゆらゆらと揺れながら庭と、和己の手元を濡らす細かい糸屑の様な雨を照らした。
 和己が向ったこの裏庭は、この薔薇園が完成した一年後に作られたものだった。
「こりゃ・・・足元が悪いな・・・」
 裏庭のぬかるむ寸前の柔らかい土に、危うく足をとられそうになり、和己は舌打ちした。
 転びはしなかったものの、ずるりと滑って踏ん張った時に足袋を汚してしまっただろうことがわかったからだ。
 いつもは色とりどりの多種多様な花で賑わい、見るものの目を楽しませる裏庭だが、今は夜の帳の中で花たちは沈黙するばかりだった。
 和己が手にした洋灯を翳すと、雨露を含んで妖艶に咲く緋牡丹が闇夜にぼんやりと浮かび上がった。
 ここに緋牡丹が在るとすれば、薔薇はもっと奥にあるはずだ。
 洋灯を下げて、緩くなった地面を照らそうとしてすぅっと灯が消えた。
「油が切れたのか・・・」
 いつもならば、邸を出る時に油の残量を確かめるのにうっかり失念していた。気もそぞろだったので、それも仕方ないことだ。
 和己は仕方なく、洋灯を下ろした。
 すると、ふと香ってくる薫りを感じた。
 振り返ると、そこには。
 まるで、燐光を発するかのような。
 夜目にも鮮やかな、白。
 
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